2022年9月第4週の一言

いよいよ安倍元首相の国葬が今週の火曜日に執り行われる運びとなっている。憂鬱だ。悲しい。悔しい。腹立たしい。

それは、あまりにも多くの人々の思いが完全に無視されていることによる。民主主義を守るため、などと首相は言うが、民主主義とは数の力にモノを言わせることではないはずだ。それは人々の声を大事にすることであるはずだ。人を無視しないことであるはずだ。それなのに。

そして、これは先週も書いたことだが、こうした異論反論が多数挙げられているにも関わらず、この行事を「国の葬儀」と名付け、反対の思いを持った人々さえもその中に無理矢理巻き込んでしまうことも、腹立たしい。
この国の国籍を持つ者たち、あるいは日本人と呼ばれる人々は、イヤダと言っても無理矢理この行事の推達者としてひとくくりにされてしまう。

おまけにここには莫大な国費が投入されることになる。それは税金であって、日々苦しくなっていく生活の中でこの国に生きるみんながそれでもこの社会を共に維持していくために、と喘ぎながら納めているお金だ。それが、内閣の一存で、しかもこの大きな反対の声の中で、あっという間に使われてしまうのだ。

政府は普段から、社会保障や教育にもっと予算を割くべきだという議論に対して、「財源が・・・」と言い、そこに力を注ぐことについてあれほど消極的であるのに。この国葬となればこれほど早く、これほど強硬に事を進める。

これも繰り返しになるが、安倍元首相の政策や業績や人となりや、統一教会とのつながりなどについて、問題にしているのではない。誰であれ、国葬には反対なのだ。その意味においては、よその国のことだけれど、英国での前国王の国葬についても同じ思いだ。

誰も家族が引き取りに来ないホームレスの葬儀を、何度執り行ってきたことか。支援者が数名でお骨上げをした夕方の斎場でのあの寂しさ、切なさを思い出している。人間のいのちを国家が価値づけし、一方では無理矢理に国葬をし、一方では無縁の死として顧みない。それでいいのか。

葬り、伴いは、家族機能の最たるもの。
そして、その家族がいないなら、その機能をみんなで担う。それが抱撲の目指してきたこと。だから生前からみんなで懸命に関係を結び、思い出を紡ぎ積み上げる。
そして、たとえ家族が来なくても、みんなで泣き笑いしながら故人を偲び、それぞれの胸にその人をよみがえらせ、受け入れてまた生きていく。それが抱撲の葬儀であり、追悼であり、偲ぶ会だ。

国葬はそれとあまりにも違うではないか。あまりにも無理矢理、「国」というカテゴリー、枠組み、物語の中に故人自身を含め、みんなを押し込めてしまうのだ。

ひとつひとつの関係性や出会いは全く大切にされない。そんなことが政府の一存でまかり通る国は、人権やいのちや人間の尊厳を結局は大事にしない国だ。

どうしたらいいだろうか。
わたしたちは、わたしは、どう生きようか。
教会は何を大事にし、何を目指すべきだろうか。
火曜日だけのことではなく、問われている。

(記)会計担当 U.N(2022年9月25日の週報より転載)


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