2022年7月第2週の一言

ここ数日の間のツイートたち。ことばの復権について。

  • 7月3日
    特にこの40年ほど、この国では「ことば」が奪われ失われてきたのではないか。
  • 7月3日
    南小倉バプテスト教会は「食べること」を大事にしてきた。しかしイエスはいみじくも言う。
    「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばで生きる。」
    やっぱりことばが要る。それがパンを、いのちを、尊厳を、人間を、支える。ことば、だ。
  • 7月8日
    ことばの力が奪われ失われれば、暴力が力を増す。
  • 7月8日
    暴力と憎悪の台頭は、ことばの衰退と一体。ことばを侮り、軽視する社会は、暴力を招く社会だ。わたしたちがそこから遠ざかるためには、ことばを復権させていくしかない。
  • 7月8日
    無力なものを笑い、弱いものを嘲ることは、暴力に直につながっている。一票も、ことばも、真実も、平和も、対話も、無力で弱いではないか。暴力のほうがはるかに手っ取り早く、強力で、結果をもたらすではないか。それでいいのか。わたしたちは今その問いの前に立たされているのだと思う。
  • 7月8日
    心と感情がゆさぶられ、不安と恐れに包まれ、暗澹たる思いに追いやられながら、この日を過ごした人も多いと思う。無理もない。でも、生きなければならない。今日を終え、明日を迎えねばならない。深呼吸して、眠ろう。明日が今日より平和でありますように。おやすみなさい。明日は明日、またあした。
  • 7月8日
    こういうときに、慌てないことだ。走りださないことだ。ゆっくり歩んでみることだ。立ち止まることだ。息を整えることだ。
  • 7月9日
    ことばは、暴力でありうる。差別発言やヘイトスピーチ、ハラスメントや憎しみ、呪いのことばはすでに暴力であり、殺人的。回復しなければならないことばは、それらから遠ざかることば。
  • 7月9日
    ことばが暴力から離れていくためには、時間が必要。先を急ぎ、結論を急ぎ、端的であればあるほど、ことばは暴力的になりやすい。ゆっくり、いのちと共に歩むことばが、要る。
  • 7月9日
    南小倉バプテスト教会自分のこと、相手のこと、生きること、人生のこと、この世界のこと。それは到底言い尽くすことのできないこと。言い尽くせないことばを大切にし合うこと。暴力からみんなで遠ざかるためには、そうしたことばがいるのだと思う。
  • 7月9日
    言語能力は必要。読み、書き、聴き、語る力。それを駆使して自分や相手や世界を客観的に理解し、伝え、受け取りあうこと。それを他者を論破し屈服させるためではなく、共に生き歩むために交流させ、響き合わせること。ことばの回復、復権はそれを含んでいなければならないと思う。
  • 7月9日
    端的に何かを言い切る能力よりも、共に生きるために、ことばをどこまでも交わしながら互いに変わっていく経験の蓄積がひとつひとつ、必要なのではないかと思う。一刀両断し、端的に言い切るためのことばからの脱出、脱却。終わらない旅を共にするようなことばの復権。それができないものだろうか。
  • 7月9日
    暴力からみんなで遠ざかるためのことば。平和のうちにいっしょに歩んでいくためのことば。それはきっと「つまるところ」という端的な結論、行き着くところや答えのない、いわば「つまらない」ことばかもしれない。でも共に生きることって、きっとそういうこと。いつまでもどこまでも共に、なのだから。
  • 7月9日
    人は、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる。手っ取り早い解決方法の誘惑に抵抗してイエスは語る。それはひとりひとりのいのちや人生にどこまでもとことん伴うことば。それが人間のことばの原点だ。今、ここから生まれることばを取り戻したいと思う。ゆっくり、深呼吸しながら。

(記)会計担当 U.N(2022年7月10日の週報より転載)


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