2022年3月第3週の一言

3/20のお花

戦争反対。そう今多くの人たちが叫んでいる。ウクライナはもちろん、ロシアでも。ロシアでは国営テレビ局の職員でニュース番組編集者のマリナ・オフシャニコワさんが本番中に、ニュースキャスターの背後で
「戦争反対。戦争止めろ。プロバガンダを信じないで。ここの人たちは皆さんにうそをついている」
とロシア語と英語で書いたプラカードを掲げて逮捕され、罰金を科せられた。ロシア各地数十か所の都市で反戦デモが行われているとも報じられている。

世界的に、ウクライナの国旗が打ち振られ掲げられ、それがロシアによる信仰と戦争への反対の意思表示のシンボルとなっている。日本でも例外ではない。

その事について思うところを昨日、ツイッターでつぶやいた。

気持ちはわかる。でも違和感。国旗に、そしてきっとこの「気持ちはわかる」というところが国家というものの危なさ、怖さ。そうだ!国家のために戦って死のう!おお!みたいなことに胸を躍らせたり熱くさせたり、憧れたりさせてしまう。アブナイアブナイ、危険がアブナイ。

そう、気持ちは分かる。でも国旗は、国家のシンボルだ。戦争で痛めつけられている民衆をあらわすものではない。戦争で傷ついているのはウクライナの人々だけではない。ロシアの人々で、ウクライナに暮らす親戚や家族や友人たちを持つ人たちも多いだろう。逆もまた然り。戦争によって深い傷を負い、苦しみを負っているのは実際には民衆であり人々だ。

戦闘に参加させられている両国の兵士たちも、国家に使い捨てにされている一市民たちなのだ。国旗を掲げ打ち振るとき、国家の陰にそのひとりひとりの存在が隠されてしまうのではないか、と思うのだ。

戦争で傷つけられ翻弄されるのは、いつも下々。国家はそれを国民に強いて戦争し、自分は生き延びようとする。いやだ、いやだ。戦争、反対。いのちが大事。

(記)会計担当 U.N(2022年3月20日の週報より転載)


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