「キリスト教的生活」。それは自己の充実のことではない。むしろ「空無化」されること、「得ること」よりは「失うこと」。それは「道具性」と同時に「主体性」に深まること。神の国のしるしとして、この歴史の中に善き変化が引き起こされるための道具になること。
ヨハネが立てたあかしは、キリスト教的生活だった。自分の素性を査問するエルサレムの衆議会サンヘドリンのメンバーに対して、ヨハネは否定をもって答え続ける。自分はキリストでも、エリヤでも、あの預言者でも、ない。「実体なき者」として対応する。サンヘドリンのメンバーは権力や既成概念よよって特定の見方しかできないように押さえ込まれていて、いらだち、困惑する。しかしこの躓きを越えて「実体なき者」としてふるまうヨハネの奥に、生きて働き、語るお方を見出した人は幸い。
ヨハネは自らを実体化せず、「声」「あかしの声」であることに終始した。それがヨハネ唯一の肯定的告白。彼にはそれで十分だった。第二イザヤの語る「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」(イザヤ40章3節)はバビロン捕囚からの解放の歌の一部。荒野はイスラエルにとって真実の生活を学んだところ。審きの場であるとともに、神とイスラエルの蜜月の場。ヨハネは解放の前ぶれを告げる声。真の審きと真の慰めを告げる、しかし、無名のひとつの「声」
今年の聖金曜日の夜、中森幾之進牧師主宰の「むいか塾」で社会学の講義受講中に倒れて世を去ったSさん。Sは本名ではなかった。文字通り無名で、「声」として生きた人、「キリスト教的生活」を十分に生きた人だった。
関田寛雄はこう語っている。
実体なき者として生きる。声として生きる。M.L.キングを思い出した。しかし関田寛雄は山谷の無名の人を想起した。その眼差し。彼自身、「声」だった。
外から入ってくる音をただ響かせる空っぽの器。それでいい。それがいい。わたしの「声」は「響き」でありたい。
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