2024年6月19日ブログ「谷本仰」より転載。
エゼキエル書16章4‐6節、1996年9月6日西南女学院短大保育科チャペル、「風は思いのままに 若者にマラナ・タと祈る説教集」より。
夏は、毎年ひとつの新しい峠を越えるようなもの。人が亡くなる季節。死んだ人々の事を振り返る季節。広島、長崎、敗戦記念日。戦争という坂道を越えることのできなかった三百万人の戦没者、そしてアジア各地で殺された数千万人の人びとのこと。
お盆。夏は、亡くなった人びとの生涯を心に刻みつける季節。峠の上で、登って来た道を振り返り、その風景を心に刻みつけるようなもの。
この世で人間が生きることは、美しくて楽しいことより、悲しくて苦しい、そして汚い事の方がずっと多い。高校の時のある友人は「自分は惰性で生きているから」が口癖だった。結局人生というのは、食べるために働くだけで、本当の喜びとか幸福などは存在しない。肉体的な快感はあっても一瞬で虚しく、あとはすべて惰性。そんな風に言っていた彼は卒業して一年足らずで自死した。彼の言葉に、あの時も、彼の死から25年たった今も、答えることができない。
人間の生には苦しみが伴い、最後にはたった一人で死なねばならない。赤ちゃんは文字通り血まみれで生まれてくる。人間は、自分の血の中でもがいているということでその生涯が始まり、もがき続けて生き、最後に自分の血の中で最後のもがきを終えて死んでいく。
しかしそんな私たちに、神が声をかける。「生きよ」と。
「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」(エゼキエル書16章6節)
神は私たちの傍を通り過ぎず、私たちに手を差し延べて、私たちの身体を抱きしめ、私たちを引き起こされる。それでも生きよ、と。
キリスト教信仰は、この神がついには、ご自分がイエスという人間として、私たち人間の血みどろの苦しみの人生を送り、人間として最も苦しい死を、十字架の上で受けたと語る。そして私たちと同じように、私たちの苦しみの中に、最後のもがきを終えて死に、静かに横たわった。しかし神はその傍を通り、地の中に横たわっている彼を見て「生きよ」と言う。キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストが血みどろの死の中から、甦り、もう一度生きたということ。神はそれほどまで私たちが生きる事を望んでいる。だからもはや、すべての墓は、いつまでも死んだ人々をとどめておくことはできない。
生きることに意味があるとかないとか、私たち人間にはわからない。25年前の友人の問いかけに生涯私は答えることができない。ただ、今、彼に「神さまは『生きよ』とおっしゃったのだ」と言いたい。私たちの生きることの意味は、私たちの中にではなく、神の中にあるのだ、と。
すごい説教。説教者はこの時何を思ってこれほどギリギリのメッセージを語ったのだろう。片山寛自身が、もがきながら語っているこの説教は、きっとその時の聴衆の中の悩み苦しんでいる学生に響いたに違いない。今、それから28年後に、活字でこの説教を読んで、こんなにわたしは心震えているのだから。
生きよ。
そうだ。
生きよ!
(記)会計担当U.N.(2024/07/07週報より転載)
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