先週火曜日と土曜日、聖書講座にて、今シリーズの最終回講座が開講されました。当日のレジュメから、最終回を振り返ってみます。
〇このシリーズを通じてわかってきたこと
・イエスのたとえ話は、ストレートで、シンプルだった!
・難しい本質や、キリスト教の教義・奥義などとは無縁だった!
・イエスはガリラヤの貧しい人々と心を通わせていた!
このシリーズ開始当初、イエスのたとえ話を深く読み込み、そこからこれまで出会ったこ とのない新しい意味を汲みだしたいと考えていました。でも、改めてイエスと、彼が共に生きたガリラヤの農民たちのことを考えながら読んでいくうちに、イエスのたとえ話は元来、そうした深遠な意味を隠し持ったものではなく、ガリラヤの人びとの現実そのものに寄り添い、そのまま人々にまっすぐ響き通じることばだったのではないか、と気づいたのでした。
それはイエスのたとえから何とかして「本質」を掴みだして語り示そうと34年以上にわた って説教を繰り返してきた自分にとって、大きな衝撃、そして転機でした。
〇ほかにはこんなたとえも
・山の上の町は隠れることができない。
→「鳥」とあだ名された要塞都市セッフォリス。
・きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらするところがない。
→「きつね」はヘロデ・アンティパスのあだ名、「空の鳥」はセッフォリスのこと。
→常に具体的。そしてガリラヤの人びとの視点。下から。
イエスのたとえは、ガリラヤの民衆の生活の視点からみた世界の姿そのものです。 それが深く難解なものに思えたり、そこにキリスト教の教義や真理が隠されていると考えたりするのは、読み手、またこのイエスのたとえたちを受け取った教会が、苦しみを負って生きる人びとの現実から離れてしまっているからなのではないか、と思わされます。
〇これまでのたとえの再読
「放蕩息子」
①ルカ福音書の特徴から見れば罪人の悔い改めの物語、明らかにパリサイ人の喩えとしての兄。 これはイエスが語ったもの??
②ガリラヤの貧農から見れば別世界のはなし。響くとしたらどんな風に??
自分たちを支配し、搾取している地主のもとから逃げ出す息子は、農民たちから見ればそうしたくてもできない行動を実行に移した人物。拍手喝采。寅さん?そして飢えて飢饉に苦し み、豚の餌でも食べたいと思うのもまた貧農の現実そのもの。仲間としての弟息子。
「不正な家令」
悪辣な地主の側にいる味方(そんな人がいてくれたら、という願い)
「主人はこの不正な家令の利口なやり方をほめた」
①元々「イエスは・・・」の可能性も?
苦境や絶望的な情況の中、思わぬ味方に思わぬところで出会えたら。世の中、人間、捨てたものではない、と思わせてもらえたら。 地獄で仏、そんなことも人生たまにでも、あれば。 イエスの言葉は、そんな人びとの願いをそのまま言い表している、と読めるのです。
次期シリーズは「イエスの奇跡物語を読む」で進めることになりました。ご期待ください。
次回は昼の部:7月23日、夜の部:7月〇〇日(調整中)です。 どうぞぜひご参加を!
(記)会計担当 U.N.(2024/6/16週報より転載)
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