4月24日と29日、4月の教会聖書講座が開催されました。
シリーズ「イエスのたとえ話を読む」の第4回講座の今回はいずれもマルコ福音書にしるされた3つの「種の譬(たとえ)」に焦点を当てて。今回は自分自身にとっても大きな衝撃をうける講座となりました。今週と来週にわけてレポートします。
マルコ4章3~8節は、種まきが種を蒔くと、いばらの中、道、土の薄い石地などに落ちてうまく育たない種もあるけれど、多くの種はよい地に落ちて芽を出し、30倍、60倍、100倍に稔!というお話です。
この譬(たとえ)は、この後の14~20節で、意味を教えてほしいと言う弟子たちにイエスが伝える解説に従って理解されてきました。しかしそれは、宗教としてのキリスト教や、組織・制度としてのキリスト教会が成立した後で生まれた解釈です。
もともとは、そうした解説や解釈なしで最初の部分のシンプルなお話だけがイエスによって語られたはずです。それに説明が加わると、譬(たとえ)は途端に自由さを失い、お堅い、、教義的、倫理的な「教え」になってしまい、面白みを失うのです。
ですから今回、その最もシンプルな原型そのものを味わってみようと考えました。
イエスの言葉を聞いていた人々の大半がガリラヤの極貧の農民たちでした。彼ら彼女らにとって、種を蒔くことも、収穫することも日常そのものです。丁寧に種を1粒ずつ畑の畝に飢えていくのではなく、畑とされた土地にぱらぱらと種を蒔くおおらかな農法をとっていた当時の農夫たちにしてみれば、種が様々なところに落ちて、実らないものたちもある、というのはごく当たり前の現実そのものです。イエスは聞いている人々の現実をリアリティそのままに語っているのです。
最後に実を結ぶ種だけが複数形で描かれています。うまく芽吹かず実らない3つの種がすべて単数形であるのとは対照的です。他の多くの種、他のすべての種、というようなニュアンスです。さらにそれは30倍!60倍!100倍になる!とイエスは話を盛り上げます。
良い地に落ちる種は多い、大抵みんな良い地に落ちる、と言う肯定的な筋立てに加え、さらにイエスは話の最後をユーモラスに大きく膨らませます。音楽でいえば「クレッシェンド」です。
イエスは難しい話などしていません。ただ、ガリラヤの農民たちの経験をそのまま写し取り、肯定的に、さらに気分が楽しく盛り上がるようにそれを語るのです。
30倍、60倍、100倍の収穫があったとしても、それがすべて農民たち自身のものになるわけではありません。むしろその大半が地主に持って行かれるだけです。人々は貧しさに喘いでいました。土地は借金の方に取り上げられ、人々は日雇い農夫として地主の畑で奴隷のような農作業に従事しなければなりませんでした。極貧のどん底で人々は身体を壊し、栄養失調になり、多くの場合、長寿を全うすることができず、人生を終えなければなりませんでした。
イエスはそんな人々の生活の視点から見える現実をありのままに語ったのでした。しかもそれは肯定的で、喜びや希望を含んでいました。イエスの物語が人々の心に残ったのは、イエスのこの話が何か深い真理や意味を教えるためのものではなく、ただシンプルに寄り添い、共感し、喜びを分かち合うものであったからではないか。そんな風に思えたのでした。(後編に続く)
(記)会計担当 U.N(2023年5月14日の週報より転載)
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