南小倉バプテスト教会の聖書講座の新たなシリーズが始まりました。シリーズⅤの今講座のテーマは「イエスのたとえ話を読む」です。
聖書講座は2017年に始まりました。西南女学院大学で繰り返してきたキリスト教学の授業で学生たちと分かち合い、考えさせられてきたことがとても豊かで、非常勤講師の働きから離れたときに、これがそのまま埋もれるのは勿体ない、と思ったのでした。そうだ、教会で市民大学講座をやってみたらどうだろう。自由で対話に溢れた講座にしたい。何よりテストや評価の必要がないのがいい!そんなことを思ったのでした。
シリーズⅠ「七日間の世界創造物語を読む」、シリーズⅡ「主の祈り」は西南女学院大学で行った授業が下敷きでした。当初そこまでの期間限定講座を考えていましたが、続行のリクエストが多く続けることになりました。そこからオリジナルカリキュラムが始まり、シリーズⅢ「イエスの生涯を読み解く」、Ⅳ「イエスと女性たち」と続きました。
今シリーズはイエスのたとえ話をとりあげます。魅力的でおもしろいたとえ話が沢山福音書に収められています。どきっとして、はっとして、考えさせられて、にやりとさせられて、ぐっとくる。イエスはそんなたとえ話の名手でした。
なぜ、たとえ話だったのでしょう。なぜイエスは譬という形、方法で語ったのでしょう。その理由を、山口里子さんはこんな風に書いています。引用します。
「『パラボレー』(譬え話)は日常生活で馴染みの事柄をとりあげる短い話でありながら、聴き手をハッとさせてショックな問いを残します。こうして聞き手は、日常生活にありふれた事柄を根本的な所から問い直すように迫られるのです。つまり、答えを与えられるのではなく、自分たちで考えるように仕向けられるのです。」
「さて、ストレートに『答え』を示さず問いを残して終わるという特徴を持つ譬え話は、『弱者の武器』と呼ぶことができる語り方の一つでした。結論を示さず聞き手に様々な解釈の可能性の余地を残す譬え話は、権力者との正面衝突を避けることが出来ます。これは、巨大なローマ帝国植民地支配下で生活していたユダヤ人たちの抵抗運動には、とても有効な戦術でした。
それと共に、ショックな問いかけを残す譬え話は、聞き手の『意識向上』を促すことができます。イエスは、譬え話を語ることで、自分で考えるのではなく言われたことに従うようにされていた貧しく抑圧された人々に、解放に向かう意識向上、身の回りの事柄への深い『気づき』を促したのではないかと考えられます。」(「イエスの譬え話2」11~13頁)
今シリーズでは以下のたとえ話を取り上げる予定です。
・失われた羊と銀貨、放蕩息子、不正な家令
・種蒔き、パン種、からし種
・空の鳥・野の花
・これらの最も小さな者のひとりにしたのは
・ぶどう園の主人と労働者
・らくだと針の穴、目の中のちりと梁
・どろぼうの神さま
・風は思いのままに吹く
・一万タラントの借金をゆるしてもらう人
・善きサマリア人
・片手・片目で入る天国
どうぞお楽しみに。
キリスト教の教義を教え込む講座ではなく、対話し、共に考え合い、生きること、愛、希望を心に響かせる講座です。昨夜の夜の部に続き1月昼の部は明後日火曜日1月31日午前10時開講。どうぞどなたも自由にご参加ください。お待ちしています。
(記)会計担当 U.N(2023年1月29日の週報より転載)
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