ルカ福音書2章14節。
田川建三著「新約聖書 訳と註 ルカ福音書」より引用。辛口毒舌が持ち味の田川建三が、手放しでこの部分を喜んでいるのがとても素敵だと思います。以下。
いと高きところには、栄光、神にあれ。
文語訳聖書の訳をそのままそっくりお借りした。
古来、数えきれないほどの人、数えきれないほどの土地で、それぞれの言語で、それもすでに言語の伝統となっていた言い方で、天の軍勢のこの言葉をクリスマスの度に歌ってきたのだから、また近代になってからは、たとえばバッハがクリスマス・オラトリオで、ヘンデルがメサイアで、等々、皆さん思いを込めて歌い継いできたのだから、日本だって、昔から人々の耳に残っている文語訳の名訳を捨てることはないだろう。それにこのせりふについては、文語訳がぴったり正確な訳だし。
確かに神の子の誕生の神話的場面である。しかしその場面で天の軍勢が宇宙全体に響き渡るほどの合唱を、野で羊を守っていた羊飼いたちに聞かせるのに、余計な宗教的説教だの、宗教的ドグマだの言葉だのを一切言わず、神がいます天には栄光が、我々が生きている地上では平和があるように、とのみ歌ったというのは、すばらしいことではないか。世界中のすべての人々に、みんなそろってひとつだけ、あってほしいと願うべきことがあるのなら、それは「地には平和」ということではないのか。
地には平和、(主の)喜び給う人にあれ。
・・・この表現には10節の「すべての民」に対して制限を加えようとするものだ、という解釈もある。一応原則的には福音は世界のすべての人にもたらされたのだが(10節)、実際にはそれがあてはまるのは他に対して善意を持つ人(ないし神が特別に好意を持ってくれた人、つまり神が選んでくれた人)だけなのだという解釈である。これまた、そこまで偏狭になりなさんな、としか言いようがない。ここの「人」は複数。「喜ばれること」という名詞を属格でつけている。この種の抽象名詞の属格はさまざまな意味に解しうるとしても、ここは一般的に人間たちを指すと解するのが素直。人間存在と言うのは神が喜んでくれる存在だ、という意識の表現である。神が喜んで創造してくれたのが人間なのだから。
(記)会計担当 U.N(2022年12月25日の週報より転載)
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