2022年10月第4週の一言

このところ、抱撲の活動を通じて出会った馴染み深い方々の召天が相次ぎ、葬儀続きで参っている。この間も、2週間ほどの間に4名もの葬儀が続いた。

看取りや葬儀、追悼は抱撲の大切な働きであり、寂しくても、それを引き受けるのは務め。しかしひとつだけどうしても苦手なことがある。

斎場(火葬場)のスタッフによる仮想前後の取り仕切りが、毎回ストレスなのだ。ちょっと心の中の声を書いてみる。

棺を載せた台車を最上のスタッフが操縦して、割り当てられた炉のところまでやってくるとやおらに一言。
「黙祷をお願いします。」・・・なぜあなたがそれを「お願い」するのだろう。牧師が言うにしても「黙祷いたしましょう」だと思うのだけれど。

炉に棺が納められ、炉の扉を閉められる際、こうおっしゃる。
「これが故人様と最後のお別れでございます。」・・・いいえ。天国でまた会えるんです!さっきまで「また会う日まで、また会う日まで」と歌っていたのです。

「それでは黙祷をお願いいたします」「おなおりください。」
・・・・なんだか号令をかけられているようで・・・。

火葬が終わり、収骨の段になる。ここからさらにストレスの度が増していく。

運び込まれてきた遺骨を前に、必ずこうおっしゃる。
「故人様に向かって黙祷をお願いいたします。」
・・・ご本人はそこにはもうおりません!神様のもとで安んじているのです!そもそも人間に向かって黙祷なんてしません。まして骨、物にむかってなど!

「おなおりください」・・・また号令。

「それではお収骨をいたします。まず喉ぼとけ様をこちらにお出しします。第二頸椎でございます。最後にお収めいただきます。」
・・・「様」て!一片の骨を仏像に見立てて神聖化し特別扱いすることがみんなにとってありがたいとは限らない。特にクリスチャンには苦痛以外の何物でもない。

「足から順に向かってお骨をお出しいたしますので、順番にお収めください。こちらが足の指でございます。こちらが・・・、最後に喉ぼとけ様をお収めし、その上から頭の骨をかぶせていただきます」
・・・生前の身体を骨壺の中でさえ再現しようとしているのだなあ。たった今、牧師が「灰を灰に、ちりをちりにお返しします。」と祈ったばかりなのに・・・。肉体への執着そのものだなあ。キリスト教の葬儀はすべてを神の手に委ねることが中心なのだけれど。

「最後に黙祷をお願いいたします。・・・お直り下さい。」徹頭徹尾、なのだ。

驚いたことに先日は、キリスト教なので、こうした骨の説明など一切要りません、とスタッフの方に司式者を担当した奥田牧師が伝えたにも拘わらず、一切無視され、上述の流れがやっぱり繰り返されたのだった。

おそらく、これ以外の形に対応することが全くできないのだ。決まった台本、決まったセリフ、決まったシナリオ。斎場の側で決めたそれらをただなぞっているだけ。

「心」が感じられないのだ。いや、ないと言ってもいい。
心とは、参列者の想いや、気持ちに寄り添い、それを優先する謙虚さ、柔らかさ、やさしさのことなのだ。人生の最後に、こんな風に扱われるのは本当に嫌だなぁと、いつも思う。
変な宗教性を押し付けられることだけではなく、この心のなさこそが悲しいのだと気付いた。

何もかもがこの社会の中で劣化してしまっているよなぁ・・・・。そんなことを牧師たちはぼやきながら帰路についたのだった。

心が必要なのだ。
心に飢えているのだ。
人間とはそういうものだ。
やさしい人間らしさがほしいのだ。

ほんとうにそう思う。

(記)会計担当 U.N(2022年10月23日の週報より転載)


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