2月10日夜から翌11日にかけての連続ツィート。
自分の考える正解を飲み込むよう迫らないこと。取り返しのつかない形にしないこと。いつでも別のやり方や道に開かれていること。やり直しや修正ができるようにしておくこと。そうやって一緒に生きていく。それが愛かもしれない、とふと思ったのでした。おやすみなさい。明日は明日、またあした。(2月10日夜。以下2月11日)
そうでなくてもいいのかもしれない。そうとは限らないのかもしれない。そんな風にふと思うことができるときの、あの自分がふわっと軽くなる感じ。そしてなぜか笑いたくなるあの感じ。あの瞬間だ、風が吹いているのは。
いや、風はその瞬間に吹いているのだけれど、その瞬間だけではない。きっとそれはいつも吹いている。みんなその風の中を生きている。あの、自分が不思議な自由を感じて笑いたくなる瞬間、わたしはその風に気づく。そういうことかもしれない。
なんか笑いたくなる。空を見上げたくなる。人に言いたくなる。足取りが軽くなる。風船のようで、自分が。ふくふくと笑い合いたくなる。広々として、のびやかで、なにか自分の中に光が灯ったようで、あたたかで。握りしめていた手を開くとき、いやその前から、それは始まる。もう嬉しくて手を開くのだ。
そうやって、自分という呪縛から解き放たれる。そうやって、共に生きる者へと変えられる。そうやって人間らしさを取り戻す。そうやって愛する者となる。これを手放す訳にいかない、絶対に手放したくない、と握りしめていたものをふわりと手放すとき、そんなことが起きているのかもしれない。
それは自分を解放すること、自分が解き放たれること。そしてそれは他者を解放すること、他者が解放されること。「私」というものから。「私」の正しさや答えから。それがゆるしというものなのかもしれない。
許可の許しというよりも、解放の赦し。そういえばゆるしって、何かがゆるむ感じにもつながっているかもしれない。きっとこのわたしだ、ゆるむのは。この手だ、ゆるみ開くのは。
そしてゆるんだ手は、あらゆる可能性へと開かれる。つなぐ。差し出す。招く。受け入れる。受け取る。抱く。それらはみな、ゆるんだ手のすること。開いた手にしかできない。私を、正しさを、答えを握りしめていたのではできないこと。手放すこと、ゆるすこと、ゆるみ、開くことは、可能性、そして未来。
「私」は農園主に所有された農奴を象形文字化したものだと白川静は言う。それなら手を開き、握りしめていた「私」を手放すことは奴隷解放だ。奴隷の主人にとってそれは失うことかもしれない。でも支配され所有されていた存在にとっては、ちがう。それは自由へ、未来へ、世界へと歩みだすこと。
風に吹かれて。正しさや答えを、私を、手放す。委ねる。共に生きる。私はゆるされて、ゆるむ。開かれた手になる。そこに希望がある。共に生きる歩みが始まる。愛がある。ゆるせ、と風が吹く。解き放つ風が吹く。踊りながら行こう。歌い笑いながら、行こう。
(記)会計担当 U.N(2023年2月12日の週報より転載)
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