南小倉バプテスト教会聖書講座シリーズⅤ「イエスのたとえ話を読む」➁昼の部、夜の部が先週終了。題して「羊と銀貨と放蕩息子と」。
取り上げたのはルカ福音書15章1~32節。みんなで読んで自由に語り合いました。対話の中で面白い視点、意外な解釈、そうだそうだと頷き合うような読み方が次々に現れます。できるだけ宗教的、教義的、寓意的になりすぎないようにしました。イエスの譬を、これはこういう意味です、と固定してしまうとおもしろくなくなるのです。
羊飼いが百匹の羊を飼っていて、そのうちの1匹がいなくなったら、他の99匹を荒野に残してでも1匹を探しに行き、見つけたら喜んでみんなと祝宴をする。女が持っていた銀貨10枚のうち、1枚を失くしたら、家中掃いて探し、見つけたら近所の女性たちと、やっぱり宴会。ふたりの息子のうち、弟が父親の財産を半分生前相続して家出、それを遊んで使い果たして行き詰った挙句、飢饉で飢えに苦しみ、このまま死ぬより父のもとに帰って雇人としてもらった方がマシ、と帰ってくると、父親は無条件で受け入れ、やっぱり祝宴。怒った兄を父がなだめ、たしなめる。
罪びとの悔い改めの譬として語られたとされるイエスの3つの話ですが、一気に読むと微妙な違いがあり、展開があって面白いのでした。羊は自分の足でどこかに行く動物、銀貨はモノで失くした側にいわば責任があり、放蕩息子の譬は人間の話で、本人の責任の話。羊と銀貨は誰かが探して見つけるけれど、弟息子は自分で帰ってくる。羊は100匹、銀貨は10枚、息子はふたり。福音書著者ルカは、こうした事を意識しながら、バラバラに存在していたイエスの譬をひとつにつないだのかもしれません。
ルカはまた、羊や銀貨が一方的に取り戻されたり、打算で父のもとに帰った方が得だと判断して弟息子が戻ることを「悔い改め」と表現しています。ルカ福音書に沿って考えるなら、それでいい、ということになります。面白い。
3つの譬はイエスが当時の律法に従った清い生活ができない現実を生きる貧しい人々と飲み食いをしているのを「けがれている」と咎めた宗教者たちへの反論として語られた、と説明されています(1~3節)。イエスは、人々が苦しい中を生きてきたことそのものを喜び祝って何が悪い?めでたいことやないか!と彼ら彼女らのために語ったのです。イエスはこうした人々の味方であり、代理的提言(アドボカシー)を行っているのです。
いや、そもそも、もっと自由に、直接、こうした人々の只中で嬉しく語られた譬たちであったのかもしれません。みんな笑ったり頷いたりしながら楽しんだのかもしれません。そして生きていていいんだ、と感じることができたのかもしれません。聴衆の中には羊飼いたちがいたかもしれません。すぐモノを失くし、しょっちゅう探し物をしている実在の女性がイエスの念頭にあったかもしれません。自他ともに自業自得と思えるような悲惨な状況の中で、それでも生きている人々がそこにいたのかもしれません。そんな人々にとって、イエスと分かち合う食事と譬話は、きっとそれだけで希望だったことでしょう。
次回はこの続きを話題にします。「不正な家令」の譬。なんだかやっぱりザワザワする物語。ブドウ園の主人と労働者の譬と合わせて読んでみたいと思います。奮ってご参加を!昼の部3月14日、夜の部同25日開催予定!予定に入れてください。奮ってご参加を!
(記)会計担当 U.N(2023年2月19日の週報より転載)
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