「土曜日の霊性」。榎本天さんの著書「それで君の声はどこにあるんだ」の中で、彼がニューヨークのユニオン神学校で出会い学んだ黒人神学者コーネル・ウェストの言葉、神学思想として紹介している歴史概念です。引用して紹介します。同書66~68ページ。
「土曜日の霊性」、黒人が400年にわたる破局のただなかで培ってきた冷静を、ウェストはそう呼んだ。イエスが十字架につけられた金曜日、そして彼が復活した日曜日の朝。しかしその2つの時のあいだには、見過ごされてしまうことが多いのだが、いつ終わるとも知れないくらい土曜日という時があった。それは安易な楽観を抱くのが不可能となり、我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか、というイエスの呻きが、低く低く響いているときである。
400年の破局。もちろんそれは一様であったのではなく、黒人女性にとって、LGBQの人々にとって、障がいを持つ人にとって、子どもたちにとって、貧しい人々にとって、破局は断片的に偏在している。
だからこそ、土曜日とは、状況を表す言葉であるとともに、自らの選び取る立ち位置であり、今も危機の只中にある人々と共にあるために踏みとどまるべき場である。そしてそんなとき、逆説的に、私たちはその土曜日に食い込んでいる日曜日の復活の出来事を証しするのだ。土曜日とは、同時に金曜日であり、日曜日である。
アメリカ黒人が経験してきた400年は、継続的な土曜日という時に他ならない。それは命が軽んじられる危機である。いいか、黒人問題ではない。黒人の危機なんだ。しかしその土曜日に、私たちは問うのだ。
私たちはいかなる人間となるのか。いななる人間となることを、選び取るのか。その問いこそ黒人の霊性の根幹をなすものなのだ。
彼の語りは芸術そのものであり、マディー・ウォーターズのように咽ぶ(むせぶ)こともスライ・ストーンのように怒りに洗練されたリズムを与えることも、ジョン・コルトレーンのように複雑な事象と凶器を、それを損なうことなく、しかし美しさと愛でもって表現することも、自由自在だった。彼が口を開くや否や、教室の私たちはまるで最上の音楽でも聴くかのように、その言葉と踊るのだった。(つづく)
(記)会計担当 U.N(2022年1月8日の週報より転載)
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