自民党の衆院議員で元幹事長の二階堂俊博氏が9月16日金曜日、衛星放送番組収録の中で、安倍元首相の国葬に反対の声が大きくなっていることについて、以下のように述べたと報じられている。
「終わったら反対していた人たちも、必ず良かったと思うはず。日本人なら。」
「長年つとめた首相が亡くなったのだから、みんな黙って手を合わせて見送ってあげたらいい」
「国葬がどうだとか、こんな時に議論すべきではない。控えるべきだ」
「欠席する人は、後々、長く反省するだろう。欠席しようがしまいが、国葬には関係ない。世の中にあまり賢くないということを印象づけるだけだ。選挙で取り戻すのは大変だぞ」
明かな差別、ぼうりょく、言論封殺、恫喝だ。
国葬については時事通信が9日から12日にかけて行った世論調査の結果、「反対」が51.9%、「賛成」は25.3%となったと報じされている。反対が賛成の倍。国葬は「国論を二分」などしていない。二階氏の発言には、こうした世論へのいらだちや焦りが表れている。
国葬に反対し続ける者は日本人ではない。二階氏はそう言ったことになる。そして、それは日本人でなければならない、日本人であることこそが正しい、という考えを前提にしている。それは日本と異なる国籍を持つ者やそこにルーツを持つ人々、異文化を背景に持つ人々を見下し排斥するレイシズムだ。当然、それはこうした人々に対するヘイトスピーチや排除、攻撃に直結する。それらはそこにすでに含まれている。
これは二階氏個人だけでなく、国葬そのものの問題だ。内閣が独断で閣議決定し、勝手に執り行うことにしたそのプロセスもさながら、国葬自体がこうしたレイシズムを体現し、さまざまな意見や立場、異論や批判や反対をすべて無視し、そのすべてを国葬への賛同へと強制的に取り込むものだからだ。
国葬は、二階氏などが「黙ってろ」といら立ち紛れに発言することが中田としても、それ自体が弔意と沈黙を「国」の名のもとに強いる行事なのだ。だからどんな総理大臣であったかはここでは問題ではない。それが誰のものであれ、「国葬」そのものが問題なのだ。
8月31日、こんな風にツィートした。
「いやだ!幼児の一番最初の強い意思表示はここから始まる。いやだは自分らしさの始まり。いやだを奪われることは自分を取り上げられること。いやだ、と言ってはいけない雰囲気は、だから危ない。みんなで、お互いに、いやだ!を大事にしよう。おやすみなさい。明日は明日、またあした。」
だからこそ、国葬反対。
差別と抑圧と、同質化の強要と、異質や「いやだ」の排除と、レイシズムに抵抗したいからだ。それらの暴力の下で苦しんでいるみんなとつながり響きたいからだ。そんなみんなに仲間がいること、ひとりではないことを伝えたいからだ。平和を創り出したいからだ。文絶や断絶に与せず、それら乗り越え修復しながら、人間らしく、共に生きたいからだ。
そして、愛と平和と共感に生きたイエスを信じるからだ。
(記)会計担当 U.N(2022年9月18日の週報より転載)
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