水曜日、ゼレンスキー・ウクライナ大統領が衆議院第一議員会館国際会議室及び多目的ホールでオンライン国会演説を行った。被害を訴え、ロシアへの圧力や経済制裁の継続を求める内容。衆議院事務局が事前に作った式次第には、演説後にスタンディング・オベーションをすることまで指示してあり、国会議員たちがこぞってそれに従ったと伝えられている。
ロシアが独立国の主権を無視して軍事侵攻したことは、明らかな国際法違反だ。しかしロシアと国境を接するウクライナのゼレンスキー政権はこの間、そのロシアに圧力をかける西側諸国の軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)への加盟へと動いていた。ロシアは、この戦争は自営を目的としたもので、国をNATOの脅威から守るためにはやむを得なかったと主張する。
一方、ウクライナは、自国を脅威にさらすロシアから身を守るためにNATOにはやむを得ず接近した、と言い、今、ロシアを敵視し、国民に戦いへの参加を強いるのもやむを得ない、と言うだろう。
いつもそう。戦争は「やむをえず」始まる。そして結局、下々が、名もない民衆が被害を受ける。戦争に参加させられ、命を奪い、奪われる。
戦争は、直接の軍事力の行使によってのみではなく、軍備や軍隊の設置、軍事同盟など、戦争の備えや構えからすでに始まっている。戦争に反対することは、それらから身を遠ざけることでもある。あの場で立ち上がって拍手喝采した国会議員たちの大半は、一方で戦争放棄を定めた日本国憲法第九条を改定することに前向きなのだ。それは本当の戦争反対と言えるだろうか。
われわれ自身にとっても他人事ではない。敵意、敵視、憎悪、恐怖、自己絶対化・正当化、呪い・・・。それらはわたしたちを身構えさせ、対立させる。そこから遠ざかることが、私たちにとっての戦争反対であるはずだ。
イエスは「互いに愛し合え」と促す。「敵を愛せ」とさえ言う。それは敵を好きになることではない、とM・L・キング牧師は語っている。愛とは何か。
一言で言うなら、共に生きること。イエスの体現したこと。
それは相手を自分と無関係な存在として切り捨てないこと。相手と自分との間に、何としてでもつながりを見出し、創り出しながら歩むこと。縁を切らないこと。延々、答えが出なくても、問題が解決しなくても共に歩むのをやめないこと。直接できないこともあるだろう。そうであれば、他人に助けてもらってでも。祈りを通じてでも。それが愛で、それが祝福で、それが平和。
そして、それこそが戦争の反対へと向かうこと。イエスが体現したのはそういうことだった。
愛すること。平和を創り出すこと。それは簡単ではない。でもシンプルだ。それは崇高で深いけれど、具体的で身近で、可能だ。戦争、反対。愛と平和を、行動し、生きたい。みんなで。せえので。切に、そう願う。
(記)会計担当 U.N(2022年3月27日の週報より転載)
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