先週火曜日と水曜日の2日間にわたって沖縄キリスト教センター・ぎのわんセミナーハウスで開催された沖縄宣教研究所・富坂キリスト教センター第5回共同研修会に前回に続いて参加しました。コロナ禍のために2年間の延期を経て、4年ぶりの開催でした。テーマは「植民地主義と神の国の宣教Ⅴ~国家と信仰」。
共同研修会の目標は以下。
共同の学び
①聖書
②沖縄の歴史・文化・基地・平和
③宣教・教会形成・神の国
私たちは聖書に記された、神と神の民の歩みを想起しながら、日本における植民地状態にある沖縄の歴史と文化を共に学び、沖縄における基地の現実を見据え、平和への思いを分かち合いながら、今、私たちに語りかけられている神の言葉、私たちが取りつぐべき神の言葉を聴きたい。 私たちが世界に対して、どのように仕えるのか(宣教)を共に探りながら、神の国の徴となる教会を形成する勇気と希望を共に養っていきたい。
研修会ではその名称や目標の中に使われる「共同」という言葉の意味の確認が繰り返されていました。それは一方が他方を呑み込み、支配する「合同」と区別され、常に双方がそれぞれの違いや独自性を認め合いながら、対話を通じて一緒に学んでいく過程のこととされていました。その意味で、この「目標」の中で使われている「私たち」も常に、沖縄(ウチナー)と「日本」(ヤマト)の共同性の中でしか見出せない新しい「私たち」であるはずだと思わせられました。
研修会の中では日本が沖縄に対する植民地支配を行ってきたことが繰り返し示され、その自覚について沖縄の視点から日本人(ヤマト)参加者が厳しく強く問われていました。その度に研修会参加者一同、特にヤマトからの参加者は緊張し、時に言葉を失い、時に謝罪や、不十分ながらもその認識を持ち、深めていることなどが応答として語られました。こうして簡単に言い表すことのできない事柄や、またすぐに解決することのできない課題について、それでも言葉での表現、確認を追求していく、そんな研修会でした。それは言い尽くすことのできない神の存在や働きについて言い表そうと努力する「神学」と類似性や関係をもつ営為であるとも思えました。
また、沖縄が受けてきた苦しみの中で、怒りを表すことの意味や大切さが繰り返し語られていました。中でも、普天間バプテスト教会(沖縄バプテスト連盟)の神谷武宏牧師はその講演「沖縄の神学(その二)~沖縄の『現実』に立脚して」の中で、イエスの「あなたがたは地の塩である」との言葉について、旧約聖書での用例を挙げながら、それが単に塩味をつけたり食品を保存したりする役割に留まらず、地に撒かれてその地から実りを奪ってしまう神の怒りを表す表現である可能性を指摘しました。つまり貧しい人々の怒りは神に由来するもの、とイエスが譬で示唆したという解釈です。イエスは、塩がその効き目を失ったら、外に捨てられ人々に踏みつけられるだけだ、と言っていますが、それは虐げられている人々が正しく怒ることを失えば一層踏みにじられるだけだ、という意味になると思われました。とても示唆に富んでいて具体的な、苦しめられている者たちと共に生きるイエスらしい言葉の再現であると思われました。(続く)
(記)会計担当 U.N(2023年2月26日の週報より転載)
最近のコメント