2022年7月第5週の一言

7月26日。
6年前のこの日、相模原市の障がい者施設「津久井やまゆり園」で19人の入所者が殺害され、24名の入所者と2人の職員が怪我を負わされた。

2022年3月28日の会堂装花犯人・植松聖氏は、犯行時、ひとりひとりが簡単な挨拶ができるかどうか、自分の名前を言えるかどうかを確かめ、それができない人を次々に襲った。
彼はこうした言語的なコミュニケーションができない障がい者を「心失者」と名づけ、こうした人々は不幸しかつくらず、社会の負担になる「生きる意味のないいのち」であり、死なせた方が世の中のためになる、と考えていたとされる。

他人事ではない。
むしろこの社会全体が、この考え方に支配されている。それを端的に示しているのが「迷惑」という言葉だ。

「他人に迷惑をかけてはならない」という考え方は、この国、この社会で常識、暗黙のルールとして共有され、社会規範化されている。

近所の公園にいけば「他人に迷惑をかけないようにしましょう」と書いた看板が立っている。公共交通機関を利用しても「他のお客様のご迷惑にならないように・・・」というアナウンスが繰り返されている。世界でもこんな国は珍しい。

抱撲がホームレス自立支援センター北九州、福岡抱撲館、そして抱撲館北九州を運営・建設しようとした時も地域などから反対の声があがった。「迷惑施設」だというのだった。

迷惑。それは、他人の行為や存在によって、自分や社会の在り方が揺さぶられたり変化させられたり問われたりすることへの拒否感やタブー視を含んだ言葉だ。
そこにはこの社会で人が互いに影響を与え合わないように、また雰囲気として保たれている同調性を乱さないようにすることが何よりも重視されていることが示されている。

空気を読むことは、この社会で生き延びるための技術、サバイバルのためのスキルなのだ。異質な存在への執拗な攻撃や排除は、その裏返しであり、その応用なのだ。だからそれはこの社会の至る所で常態化する。

しかしそれは他者同士が共に生きていく社会として不健全で、不自然。
他者と共に生きることそのものを「社会」と言う。社会を構成し、人と人が出会ったりつながったり、関わったりし合いながら生きているときに、人は変わらざるを得ない。
それを「迷惑」と呼ぶなら、迷惑は社会の必然だ。それをなくしてしまうと、社会自体もなくなる。

迷惑を排除しようとする世の中。
迷惑をかけまいとする気持ち。
迷惑な存在はいない方がいいと思う心。
それは相模原事件を生んだものと通底している。そしてそれは社会そのものの否定につながっている。それは人間性の否定そのものだ。

イエスの語った譬に出てくる「からしだね」など、迷惑の最たるもの。それが畑に落ちてしまうと国全体が乗っ取られ、鳥がよりついて元々そこに育つはずだった作物は壊滅的打撃を受ける。
そんなからしだねを「神の国」の譬として語ったイエス。

迷惑万歳。迷惑こそ大切。共に生きるってそういうこと。そこにこそ、人間らしさと、豊かさがある。
イエスはそう言っているように聞こえないだろうか。

(記)会計担当 U.N(2022年7月31日の週報より転載)


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